ないものをねだってないで、あるところに行くほうが早い
うちのまちにも、ショッピングモールができないかな。
または、総合病院ができないかな、と思っている人は多いと思います。
でも、今できていなければ、今後も来ないと思います。
なぜできないのかというと、採算がとれない、コスパが悪いから。
むしろ、今あるものですら、撤退している、というのが現状。
商売にならないところには、それらは来ないでしょうね。
お金を出してくれるお客さんがいっぱいいる、
あるいは競合する同業者に負けないくらい採算がとれる、
ということが確実でないと、できないでしょう。
あとは、赤字分を役所がずっと補填してくれる、ということであれば、
できる可能性は、若干、高まるかもしれません。
補填するお金は、住民が納める税金からですけどね。
だったら、住民が、すでにそれらがあるところに引っ越してくれれば、
コスパが、まだましなので、なんとか成り立つんじゃないか、というのが、
コンパクトシティの考え方。
理にかなっています。
たった数軒、あるいは1軒のために、インフラを維持するのであれば、
それ相応のお金を負担してくれないと、むしろ、税金の使い方としては、
不公平ではないか、そんなふうにも思います。
ただ、その数軒が、人々の食料となる農作物等を作っている、
という場合もあります。このへん、不公平と言えるかというと、なかなか難しい。
しかし、かつてニュータウンとして作られた丘の上の新興住宅地や住宅団地で、
子どもも巣立って高齢化率50%近いようなところは、どうなんでしょ。
定年後のサラリーマン世帯だと、その地域で農作物を
作っている、なんてことは少なそうですね。
年金生活で、行政サービスを受けている、という感じなんでしょうか。
農作物等を生産しているのではなくて、
単に家があるから住んでいるだけ、ということであれば、
自分のために、ないものが来るのを待っているんじゃなくて、
あるところに、自分が引っ越してくる、ということも、
受け入れないと、きびしいんじゃないかな。
自分が行ける範囲にお店や病院がないのはおかしいことなのか、
魅力が低下してお店や病院がなくなったり、できないまちに
自分が住み続けていることがおかしいことなのか。
客観的に見ると、どうなんだろう。
コンパクトシティという考え方を受け入れることも
必要なんじゃないかと、こんなのさんは、考えました。